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Herald Tribune asahi
富士鳥居 代表取締役 栗原直弘
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言語水準の低下
先日、ある読者から寄せられた感想の中に、日本における若者達の言葉遣いや敬語の乱れについて、「現代の日本人が自分達の言葉遣いによって自分自身を定義されるのを望まなくなったからではないでしょうか。日本も、他の国々と同じように、難解で社会的に不必要になってきた会話形式を失いつつあるのです。」というご意見をいただきました。確かに、読者の方がおっしゃるように、世界中で今、昔ながらの美しい言葉が使われなくなっています。ある意味では、これもまた言語上の進化の一つなのかもしれません。しかし、このような現象は何を意味するのでしょうか。もちろん、古い言語形式を「難解」と捕らえるか、言葉や表現に「深み」があると捕らえるかは個人の自由でしょう。しかし言語の単純化は、「言語水準の低下」や「文化の衰退」とは言えないでしょうか。私は正に、このような状況を憂いて、この一年余り、このコラムを書き続けてきたのです。
 
実力主義の社会では、「年功や立場などというものは前世紀の遺物」とお考えの方も多く、簡素な言語は会話や伝達において神経を使う必要もないでしょう。また先進国といわれる国では、一段と「個人の自由な選択」や「モノセックス化」が進んでいることも承知しています。しかしながら、「神経を使う」ということは「頭を使う」ということであり、自らが生れ持った「性」や、自分が置かれた立場や環境を受け入れてゆくことも、「人としての成長」や自らの「心の安定」に繋がると、私は考えています。
 
 
国の乱れ
言うまでもなく「良い」「悪い」の判断は相対的な価値観の中にあり、それぞれのお立場や利害によって、多くのお考えやご意見もあるでしょう。近年のグローバリゼーションの中で、ビジネス上の伝達や管理を考えれば、言語の単純化や統一は、確かに都合が良いかもしれません。しかし、人は目先の利益や効率のためだけに生きているのではありません。言うまでもなく人は、金銭的な価値では計れない、自らの内にある「心」という存在によって生かされているのです。
 

 
日本では古より、「言葉の乱れは国の乱れ。」と申します。今の日本では、昔ながらの美しい日本語が失われ、むしろ、そのような日本語を使うこと自体が古臭く、堅苦しいとさえ思われるようになりました。そして、とうとう「折り目正しい生活」や「真面目な在り方」が、奇異の眼で見られることすらあるのです。このような根本的な考え違いは、自由という言葉の意味を履き違えた、日本の戦後教育の欠陥であり、それは先の悲しい戦争の責任を、戦前の日本の教育や日本人の考え方にあるとして、闇雲に欧米的な考え方やシステムを受け入れてきた結果でしょう。
 
 
日本の心
「和を以って尊し」となし、「和合と享受の精神」を持つ日本人は、決っして好戦的な民族ではありません。先の悲しい大戦は、あの戦争に関わったすべての国の人々が、銃後の家族や国の安泰を願い、それぞれの民族の誇りを保つために、目先の利害を越え、自らの命を犠牲にしてまでも、人としての道を求めた結果であったと私は考えています。そして、このような想いは、人種や宗教を問わず、世界中のどの国の人も同じではないでしょうか。
 
歴史を省みれば、権力や武力による言語や文化の統制や塗り替えは、国それ自体の破壊に繋がってきました。現在、一部の国によって行われている、治安の維持や資本の統合は、一見ボーダレスで平和な世界を作るように見えますが、その延長線上には「物欲や不安による人心のコントロール」、「特定の資本や組織による一極支配」、「食料やエネルギーの統制による人類の管理」が存在する事に気付き、警鐘を鳴らす人が増えてきています。
私がこのコラムを書き続けている理由も、このような危機感にあり、グローバルスタンダードの名の下に、加速度的に失われつつある「日本語」や「日本文化」を守り伝え、その根本にある「日本的な在り方」や「日本人の心」を世界に発信して行くことで、人間本来の「優しさ」や「思い遣りの心」を取り戻せると信じ、微力ながらも、このコラムを書き続けているのです。
 
 

 

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パトリオットとして
第4節「日本語と日本人」の最終回にあたり、私はここで改めて申し上げます。「私はナショナリストではなく、パトリオットであります。」、自らが生れた国の言葉や文化を愛する事に何の問題があるでしょうか。このコラムを読んでいただいている多くの外国人読者の皆様に、私が是非ともお尋ねしたいのは、「皆様の国では、それぞれの言語や文化が、守り伝えられているか。」、そして「これからの子供達にどのような形で国を残してゆくのか。」ということです。
 
先日、私の店にお越しになったアジア系外国人の方も、「私の国でも、君のコラムに書かれているのと同じ問題(文化と国の崩壊)が起きている。」と、話しておられました。もちろんこれはアジアに限ったことではなく、ヨーロッパ諸国においても多くの伝統的な風俗や習慣、文化が失われつつあります。地球上には数多くの国と、それぞれの言語や文化が存在し、またそれらは、それぞれの歴史と英知によって培われてきたのです。私はそのような多様性こそが人類発展の根本であり、それらを一つの価値観や利害によって否定や払拭することなく、それぞれの在り方を尊重し、「和」して行くことこそが、人類が本来あるべき姿だと考えているのです。
 
バベルの塔で神は言葉を乱されました。しかし、それは驕り高ぶった人間への鉄槌としてばかりでなく、さらなる発展のための「神の愛」ではなかったのでしょうか。
 
次回から、「美というエネルギー」と題した、第5節が始まります。
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