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Japanese People Do Not Know Japan
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大きな二つの括り

前回のコラム(こちらで公開中)では、美術品というものが、「美」の創造を目的として1から10まで人の力によって生み出された「人為的な美」と、自然発生的に生れたものを後に第三者が「美」として認知した「後天的な美」の、二つに分かれることをお話しいたしました。今回のコラムでは、この「人為的な美」という意味を、もう少し詳しくお話ししたいと思います。
 
日本美術の中で、「人為的な美」の一例を挙げれば、彫金(Cho-kin)と呼ばれる金属彫刻がありますが、この金属の塊をさまざまな形に彫り上げて行く技術の習得には長い修行期間が必要であり、その後も、作者の「美」に対する研鑽が不可欠なのです。これは日本画や漆工芸、木工や服飾など、すべての日本美術に云えることですが、ここで云う「人為的な美」とは、人が人のための「美」を造ることを目的として成された「美」を云います。
 


 
人の笑顔のために

また「人為的な美」は、作者自身の「物を造る喜び」や「技量を高める楽しさ」が、結果として第三者に満足や感動を与える「美」でもあります。まるで何かに突き動かされるように作品を造り、その過程における技術の向上や「美」への研鑽が、さらなる仕事の面白みとなり、そしてその結果として、自らがこの世に存在した証を作品として残すという喜びがあります。
 
さらにこの「人為的な美」を受け手の側から見れば、作品と対峙した瞬間の、理屈抜きの感動や喜びと共に、その作品に内包された作者の長年の努力と研鑽に触れ、「到底、自分には造り得ない。」という、作者への尊敬と共に、いつまでも身近に置いておきたいという衝動に駆られるのではないでしょうか。そして、この「物造りの喜びの先に、第三者の笑顔がある」という事こそが「人為的な美」の大前提であり、後にお話しする「純粋美術」の根本でもあるのです。
 
すべては美術品

もちろん「美」は、美術品ばかりでなく、大自然の造形や美しい風景を始めとして、読者の皆様の手元にあるコーヒーカップやパソコン、文房具や壁のポスターなどにも宿っています。たとえそれが普段使いのコーヒーカップであっても、私達はそれらに何かしらの「機能」や「魅力」、また「美」を見い出したからこそ手にしたのであり、読者の皆様もチョットした小物に心惹かれて思わず購入した経験があるでしょう。実は「美術品」や「古美術」も、このコーヒーカップの延長線上に存在しているに過ぎません。 それが品物であれサービスであれ、人が創造するものすべては、それらを発想した人や制作した人の「意識」と「行動」によって成されています。言うなれば、この「意識」や「行動」の源は人の「エネルギー」であり、またそれらが製品やサービスとなって私達の手元に届くまでには、さらに多くの人達の「エネルギー」が加わります。言い換えれば、人の創造するすべては、その「制作」や「流通」、また「サービス」に係わった人達の「エネルギーが物質化した物」であり、私達はそのエネルギーを「便利」や「満足」、「魅力」や「美」として捉えているのです。
 
「美」はエネルギー

20世紀における、一部の有識者の概念では、「美」という意識自体が後天的な刷り込みによるものであり、親を始めとする権威や集合意識が「美しい」と認識したものを、我々が「美しい物」と追認しているに過ぎないとしています。しかし、ここで私が云う「人為的な美」とは、他の刷り込みによる「受動的な美」ではなく、私達の感性に直接訴えかけてくる「能動的な美」であり、言い換えれば、人間が本能的に感ずる「エネルギー」なのです。
 
人間が集団や社会を形成するにつれて、「美」は画一化され、権威化され、近年とみに意識的に操作され、商品化されてきました。しかし私は、「美」は刷り込みによる意識や概念ではなく、また他の思惑によって価値が作られるものではないと考えております。「美」とは、第三者の価値観を踏襲するものではなく、自らの感性と意識によって「感ずる」ものであり、より純粋に感性に直接訴えかける「何か」であると考えています。そして私は、その「何か」が、「ある種の質量をもったエネルギー体である。」という自らの理論を元にして、このコラムを進めてまいります。
 
つづく
 
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