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自然発生的な美

この第五節では、すでに過去三回に渡り、「美術」や「美術品」を語る上での、私の基本的な考え方をお話しておりますが、今回は、前回お話した「人為的な美」の対極に位置する、「自然発生的な美」についてお話ししたいと思います。
 
ここで云う、「自然発生的な美」とは、日本の陶器を例に上げれば、備前焼や信楽焼のように、元々「美の創造」とは関係なく、実用品や消耗品を造る目的で作られたものが、焼成中の火や経年変化といった自然の力によって、ある種のエネルギーを宿し、後の人がそれらを「美」として取り上げた物を言います。
 
このように、「美」の創造を目的として造られた「人為的な美」と、この「自然発生的な美」との大きな違いは、「自然発生的な美」には「自然のエネルギー」と「それを美と認める人のエネルギー」という二つの要素が不可欠であることでしょう。
 
大自然の力と人の評価

前項を踏まえて、この「自然発生的な美」を広い意味で考えれば、それは道端の石コロから、ダイヤモンドのような宝石までがその範疇に入ります。自然発生的に生れたものを、どのように感じ、どう評価するかが「自然発生的な美」の本質なのです。
 


 
言い換えれば、「自然発生的な美」は、「自然のエネルギー」と「それを評価する第三者」の、どちらかが欠けても、「美」としては認識されないということなのです。では、その「評価する第三者」とは何か、日本美術において、その一例を挙げれば、日本の大正から昭和にかけて活躍した思想家、柳宗悦の選んだ「民芸」が解かりやすいでしょう。柳宗悦は、民衆の使う日常品の中にも「美」が存在すると唱え、実用品として作られた陶器や、長年に渡り使い込まれた農機具の手擦れた形などに「美」を見出しました。それは、安土桃山時代に日用の雑器を茶道の道具として取り上げた千利休に通ずるものであり、後の日本人の美意識に大きな影響を与えた、「侘び」や「寂び」という意識の延長線上に位置しています。そして、このような意識が、それらと対極を成す、絢爛豪華な屏風や蒔絵などの大名調度などと、文化的に同時進行であったことも興味深いものがあります。
 
「発生」と「評価」

最近では、外国人の方の中にも、日本の「侘び」や「寂び」を口にされる方がおられますが、私達がここで見逃してならないのは、利休が茶道具として取り上げた雑器もまた「自然発生的な美」であり、そこには「自然のエネルギー」と共に、千利休のような「第三者の評価」があったからこそ、「美」としての評価を得たのだということです。強いて言うならば、「千利休なくしては、ただの雑器でしかない。」ということなのです。
 
これは好みの問題ですが、私は茶道具のすべてが美しいとは思っておりません。茶道具は、漆製品や京焼、また伊賀焼や織部焼など、一部の緊張感の在る造形物を除けば、むしろ黒っぽくて地味な物が多いと感じています。云うなれば、茶道具というものは、それらを茶道具として取り上げた茶人の見識や造詣の深さが重要であり、むしろ彼らの精神性と審美眼を評価してきたのです。だからこそ、「誰が」それらの「美」を認め、所有していたかという「由緒」や「伝来」が茶道具の世界では重視されるのです。故に、日本独特の「共箱」といわれる保管用の木箱に、識者が付けた作品の銘や所有者の名前を記す形式が生まれました。この「共箱」については、後に詳しくお話をしたいと思います。
 
未来への責任

ここで皆さんに、是非とも確認しておきたいのは、前回お話しした、日本の絵画や漆芸品などのように、一から十まで人の手で創れた「人為的な美」は、その好き嫌いは別として、その存在そのものが「美」であり、人が大自然の織り成す風景を美しいと思うのと同じように、人間の歴史が続く限り、その「美」に対する評価は変わりません。
 
前項の「人為的な美」との比較において、今回のテーマである「自然発生的な美」は、本来「美」の創造を目的としておらず、抽象や前衛をも含め、それらを評価する人間がいなければ成り立たないものなのです。即ち、「自然発生的な美」に対する評価もまた、それらを評価した人間に対する評価や認識が変われば、一変してしまう可能性を秘めているということです。現在、美術や美術品の世界では、洋の東西を問わず、「美」を作り出す技術に裏打ちされないパフォーマンス的なアートがもてはやされています。そして、多くの評論家や美術館がそれらを高く評価し、高額で取引されています。しかしながら、そのようなパーフォーマンス・アートが、どこに軸足を置いているのか、「誰が」どのような「意識」で、その「価値」を認めているのかを、我々は自らの感性で、しっかり選択する必要があります。そして、それらを評する側の人々も、果たしてその評価が、未来の人々に対しても責任が取れるかどうか、我々美術商も含めて真剣に考える時がきているのではないでしょうか。
 
つづく
 
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