space
Antiquescopyrights
backgroundspacebackground
spacespacespace
spaceribbonspace
Herald Tribune asahi
Japanese People Do Not Know Japan
space space space
「美」はエネルギー

この第五節の1章から4章では、「美」というものを理解する上で重要な二つの区分をお話ししてまいりました。それは、「美」というものが、「人為的な美」と「自然発生的な美」の二つに分かれることと、それぞれの成り立ちの違いをお話してきました。そして、その考えの根本は、「美」というのは観念ではなく、それ自体がある種の「エネルギー体」であるという、私の理論に基づいています。
 
 例えば、日本の漆芸の蒔絵のように、使っている材料は木と漆、そして金粉や貝などであり、そんな簡単な材料だけで、豪華絢爛な黒と金の宇宙を表現しています。それは、取りもなおさず、単純な材料が、造り手のエネルギーによって、蒔絵の作品として物質化したものなのです。もちろん、これは日本美術ばかりでなく、西洋の油絵も同じことで、キャンバスの上に色の粉を油で練ったものを乗せただけの物が、何故これ程までに人の心を揺さぶるのか、それは作者のエネルギーがキャンバスの上で物質化しているからであり、実は私達は絵画を通して、その作者のエネルギーを鑑賞し、感じているのです。
 
人間業と神業

では、もう一つの「自然発生的な美」とはどのようなエネルギーなのかといえば、それは、前回お話ししたような、実用品として作られた簡単な陶器などのように、「美」を目的として造られた物でなく、窯の中の火や巻き上がる灰などの自然の力、偶然性によって、人間業では為し得ない、ある種の力を宿した物をいいます。またそれは、陶芸に限らず、書きなぐった一本の線や、風雨に晒された自然の造形物にも宿るエネルギーであり、あえて言うならば、神の悪戯によってなされた「美」なのです。
 
もちろんそれらは、その「美」に気がつかなければ消耗品として打ち捨てられる物であり、ある意味では、第三者の評価や価値付けがあって初めて成り立つパフォーマンス的な前衛絵画なども同じ、「自然発生的な美」なのです。そして、「人為的な美」も「自然発生的な美」も、その根本にあるものはエネルギーであり、たとえ「美」を目的として造られた「人為的な美」であっても、その内包するエネルギーの強弱によって、消耗品ともなれば、美術作品ともなるのです。
神のエネルギー

前項でお話しした「人為的な美」におけるエネルギーの強弱の違いとは、まさに造り手の技術や美に対する研鑽の違いであり、その行き着くところは「自然発生的な美」と同じ、「神の業」でしょう。よく、巨匠とか芸術家と呼ばれる人々を「神懸っている。」と表現するのは、正に人間業を超えた作品を作り上げる技術や能力を言うのであり、そのような造り手のエネルギーが宿った作品は、他の作品とは明らかな違いがあるのです。
 
この第五節で、「美」をエネルギーとして捉えている理由もそこにあり、「人為的な美」も、そして「自然発生的な美」も、その神のエネルギーが、直接降りたものなのか、人を通じているかの違いだけでしょう。そして両者はまた、時間と言うエネルギーにも支配され、経年変化というエネルギーにより変化して行きなす。そして、その神のエネルギーが一番美しい瞬間はそれぞれによって違い、特に「自然発生的な美」は、時と共に朽ち果ててゆく一瞬の輝きであることも我々は理解しなければなりません。
 
「存在」から「価値」へ

この第五節の一章からお話してきた、二種類の「美」の在り方、そのエネルギーが人に降りて成された「美」か、器物に直接下りたエネルギーを、後に第三者が評価した「美」であるのかを、そのエネルギーの宿り方によって大きく二つに分かれることを、先ず皆様に理解していただきたいと希望しています。
 
そして、次回の6章からお話しするのは、「美」というものが、人間の価値観によって、さらに4種類に分類さることをお話してまいります。その「四種類の価値」、言い換えれば、それぞれが持つ「四種類の意味」を触りだけ述べれば、それは「純粋美術としての価値」、「純粋芸術としての価値」また「考古学的な価値」、さらに「収集家にとっての価値」の4種類に分けられるということであり、このことは新年1月末の6章から、詳しくお話しして行きたいと希望しています。
 
つづく
 


space
space
footer
space
space
space